この記事では、日本史の重要な節目、鎌倉時代におこったモンゴルの襲来と元寇に焦点を当て、その背景、経過、及びこの出来事が日本に与えた影響を紐解きます。
歴史の試験では、事実を暗記するだけでなく、その事実がどのように歴史の流れを形作ったかを理解することが重要です。
この記事を通じて、中学3年生のあなたが高校受験の社会科歴史分野でより深い理解を得るための助けとなることを願っています。株式会社Osaka-Childが送る、40代の母親の中学3年生のお子さんの受験対策を徹底サポートするこのゼミでは、記憶術から論理的思考の鍛錬まで、多角的なアプローチで歴史の学習をサポートします。
監修者
株式会社Osaka-Child所属 精神科医
- 名前: 川村恵子
- 出身地: 福岡県
- 最終学歴: 京都大学医学部 精神神経学専攻
- 専門分野: 精神病理学、ストレス管理、認知療法
- 職歴: 京都大学医学部附属病院精神科勤務(10年)、独立後、大阪で精神科クリニックを開設
専門分野について一言: 「心の健康は全身の健康へとつながります。一人ひとりの心の声を大切にしたいと思っています。」
株式会社Osaka-Child所属 精神科医&塾マネージャー
名前:伊藤 智哉(いとう ともや)
職業:精神科医 / 塾マネージャー
経歴:
わたしは、大阪市にある株式会社Osaka-Childで活動する精神科医兼塾マネージャーです。大阪大学医学部を卒業後、精神医学の道を志し、国内外の研修を経て、豊富な臨床経験を積みました。専門は児童・青少年の精神健康で、特に学習障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、不安障害を持つ子どもたちへの支援に注力しています。
医師としての職務を全うする一方で、中学3年生を対象とした進学塾のマネジメントも手掛けています。この塾では、学業だけでなく、生徒一人ひとりの心の健康も重視しており、智哉は精神科医としての知見を活かし、生徒たちが精神的にも健全に成長できるような環境を提供しています。
わたしたちのアプローチは、学習指導に留まらず、生徒たちの自己肯定感を高め、ストレス管理能力を養うことにも焦点を当てています。これにより、生徒たちは学業のプレッシャーに負けず、健康的な学生生活を送ることができます。
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高校受験でおさえておきたいモンゴルと元寇と日本の影響
高校受験でかならず出題される社会の変動とモンゴル国家の発展と元寇と日本の影響の特徴は下記の6つです。
ポイント
- フビライ・ハンによる日本襲来は、文永の役と弘安の役の2回あった
- 鎌倉幕府は鎌倉武士である足利尊氏や新田義貞によってほろぼされた
- 後醍醐天皇による建武の新政は、2年ほどで崩壊した
- 農村では自治が発達し、一揆などがおきた
- 応仁の乱は戦国時代の幕開けとなった
- 室町幕府は武家と公家の文化が融合したもので、地方へひろがった
モンゴルの襲来と日本
モンゴル帝国|アジアからヨーロッパにひろがる史上最大の帝国
13世紀はじめ、モンゴル高原で遊牧民族の中からあらわれたチンギス・ハンは、モンゴルの諸部族をしたがえ、征服をすすめました。
ポイント
そして東は中国北部から西はロシアにひろがる大帝国を築きました。
さらにその子孫が60年ほどで東ヨーロッパまで領土をひろげ、ユーラシア大陸の東西にまたがるモンゴル帝国をつくりました。
チンギス・ハンは孫のフビライ・ハンは、中国北部を中心にした元をたて、都を大都(現在の北京)にさだめました。
ポイント
このころ、マルコ・ポーロが元にきて、各地を見物し、イタリアにもどってからその体験を口述し、「世界の記述(東方見聞録)」が完成しました。
その中で、日本はジパングという名の黄金の島として紹介されています。
フビライ・ハンとは
1215~1294。モンゴル帝国の第五代目の君主(ハン)で、元の初代皇帝、1279年に南宋をほろぼし、中国を統一しました。
マルコ・ポーロとは
1254~1324年。イタリアのベネチアで商人の子としてうまれました。1271~1295年にかけて父とともにアジア各地を旅行し、元に17年間滞在しました。そのときのことを帰国後口述したものが、「世界の記述(東方見聞録)」です。この本には、フビライ・ハンが日本を占領する計画をたてていることもかかれていました。
モンゴル帝国の役割とは
遊牧民族のモンゴル族は、たかい文化をもたず広大な帝国をきずいたといわれますが、中国の文化とヨーロッパの文化を融合し、東西の交流を促進するという重要な役割をはたしました。
元寇|文永の役と弘安の役
フビライ・ハンは、高麗(朝鮮)を服属させると、日本にも使者をおくり、服属をせまりました。
これに対し、執権北条時宗は、元の要求をことわり、北九州のまもりをかためました。
ポイント
そこで元は、1274年(文永11年)高麗の軍とあわせて約3万の兵を900隻の船にのせて、対馬と壱岐を占領し、博多湾に上陸しました。
日本の武士は、元軍の集団戦法とすぐれた火器の前にくるしみました。しかし、日がくれ、元軍が船をひきあげたあと、暴風雨が吹きあれ、多くの船は沈没してしまい、元軍は退却しました。このたたかいを文永の役といいます。そのあと、日本では、石塁をきずいて博多湾の防衛をかためました。
北条時宗とは
1251~1284年。北条時頼の子。1268年に鎌倉幕府の執権となり、元寇をしりぞけます。禅宗に帰依し、円覚寺をたてました。
元は、1281年(弘安4年)、朝鮮半島から4万(高麗軍)、大陸から10万(元・旧宋軍)の計14万の兵の大軍をもって、ふたたび日本に襲来してきました。
先発の高麗軍は、石塁や前回のたたかいの教訓をいかした日本の御家人たちの奮戦により、上陸することができず、本隊の元・旧宋軍と合流することにしました。しかし合流後、暴風雨にあい、兵員4分の3をうしない、退却しました。このたたかいを弘安の役といいます。
そしてこの2回の元軍の襲来を元寇といいます。
その後も、日本への遠征計画がありましたが、実現しませんでした。
てつはうとは
「蒙古襲来絵詞」には、1274年の文永の役のとき、元軍が火薬をつめたものを空中で爆発させ、鎌倉武士や馬をおどろかせたことがのっています。これは、あとの鉄砲とはちがうものですが、火薬を使用したという事実を後世にのこしました。
永仁の徳政令|借金ぼう引きで御家人は救われた
元をしりぞけたものの、戦利品がないうえに、多額の出費をしいられた幕府の財政は、困難におちいりました。
また御家人たちは、恩賞がもらえず幕府への不満がたかまりました。鎌倉時代の後半には、御家人たちは領地の分割相続により、次第に御家人ひとりがもてる領地がすくなくなり、生活がくるしくなっていました。
ポイント
中には借金をしたり、土地を手放したりする者もでてきました。元寇はこうした御家人たちの生活のくるしさに追い打ちをかける状態となりました。
徳政の意味とは
ほんらいは地震や彗星などの天変地異を、為政者の不徳の政治に原因をもとめ、徳のある政治をすることにより災いからまぬかれるという思想をさしました。そこから、徳政とは、ほんらいの姿やもとにもどす意味合いがつよくなっていきました。
幕府は御家人の救済として、1297年、御家人のうしなった領地をただで返させ、以後御家人の領地の売買や質入れを禁止しました。
これを永仁の徳政令といいます。
しかし、徳政令は一時しのぎにはなっても、御家人たちが借金をする生活はかわらず、かえって借金がしにくくなったり、よりたかい利息をはらうはめになったりして、社会や御家人たちの生活を混乱させる結果となりました。
永仁の徳政令(1297年)とは
北条貞時が発令。ほかに裁判での再審請求の停止と、債権や債務についての訴訟をとりあつかわないことがしめされていました。
悪党の出現|異類異形のかわり者が世の中をうごかす
14世紀になると、畿内を中心に、幕府にしたがわない者がでてきました。
ポイント
彼らは土着の武士や農民をひきいて、荘園の年貢をうばったり、荘園領主に反抗したりし、悪党とよばれました。
悪党は最初こそ、異類異形の風変わり者とみられてましたが、次第に力をつけて、姿形も立派な武士とみられる者もでてきました。後醍醐天皇の新政権樹立に貢献し、新政権崩壊後、足利尊氏に湊川でやぶれて戦死した楠木正成もその1人でした。
足利尊氏とは
1305~1358年。祖先に源氏の血統をもつ鎌倉武士。1333年、後醍醐天皇の命にしたがって、六波羅探題を攻撃し、鎌倉幕府をほろぼしました。建武の新政樹立をたすけたとして、名を「高氏」から後醍醐天皇の尊治の一字をたまわって「尊氏」としました。しかし新政権にたいする不評を武士政権復活の期待の中、1335年鎌倉でおこった中先代の乱で、新政権と訣別し、1338年に征夷大将軍ににんじられ幕府をひらきました。
鎌倉幕府の滅亡|鎌倉幕府をほろぼしたのは鎌倉武士
社会の混乱や北条氏の失政の中、後醍醐天皇が幕府をたおし朝廷に政権をとり戻す計画をたてました。
ポイント
この計画は幕府側にもれ、後醍醐天皇は隠岐にながされました。
しかし、幕府に反抗する勢力は、楠木正成などを中心にして大きくなっていき、ついには後醍醐天皇を島から脱出させることに成功しました。
この動きにたいして、京都の六波羅探題は、鎌倉は援軍を要請しました。幕府側から派遣されたのは下野(栃木県)の御家人足利尊氏でしたが、尊氏は幕府の命にそむいて、六波羅探題をせめました。
また上野(群馬県)の御家人新田義貞も鎌倉をせめて、1333年鎌倉幕府をほろぼしました。
まとめ|鎌倉幕府から室町幕府は足利尊氏が先導した
モンゴルの襲来と元寇は、日本の中世史において重要な節目となり、その後の日本の政治、社会、文化に大きな影響を与えました。
本記事では、この歴史的出来事の背景、経過、影響を詳細に解説し、高校受験の社会歴史分野の学習に役立てました。歴史を学ぶことで、過去の出来事から教訓を得ることができ、未来への洞察を深めることが可能です。
株式会社Osaka-Childの40代母親の中学3年生の子どもたちの受験対策ゼミでは、このような歴史の深い理解を目指しています。
また、日本史だけでなく、世界史にも目を向けることで、より広い視野を持つことができます。当ゼミでは、中世史の他にも多様な歴史的テーマに関する記事を提供しておりますので、ぜひご覧ください。これらの知識が、皆さんの高校受験、そしてそれ以降の学びに役立つことを心から願っています。
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